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ピアノ教室コンセール・イグレック♪


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音楽のこころ

投稿日:2011-12-12

4日のクリスマスコンサートを無事終了した。

 

コンサート明けのレッスンにて。

小学校低学年の生徒さんご父兄から「ありがとうございました。素晴らしいレッスンでした!あんな近くで先生の素敵なドレス姿、夢見るようなきれいなピアノの音。・・・こどもも指を動かしてノリノリでした。ほんとうにいい思い出になると思います。」

・・・「よかったね!」と思わずにっこり。笑顔のキャッチボールが続く。

 

「僕もいつかあんな風にピアノを弾いてみたいです。」

「うん、そうか、そうか。よかったね。」

 

若いお母さま方にはわかる由もないと思うけれど、真に誠意をこめた演奏会をひとつまとめる、というのは多大な時間と情熱あってのこと。

コンサート前のちいさな生徒たちのレッスンを休講にし、レッスンの一環として生のピアノ演奏を聴くクリスマス会としてやってきた。それにも関わらず多用で欠席という生徒さんもいたなか、これらの言葉はジンと沁みた。

 

 

次のレッスン生のお母さまも「私のちょうど隣りに座っていた方が、前半の先生のピアノソロが終わったところで目頭を拭いていました。休憩時間にお話しすると<感激して泣いてしまいました。>とおっしゃってました。」

 

「さもありなん。」というほど、今回の演奏は自分としても納得のいくものだった。

自分の指から創り出されるピアノの音が、指からこぼれ落ちる瞬間まではこう弾きたい、とかこう弾こうと思っているわけだが、放たれる瞬間瞬間にそういった個人的な思いから解き放たれ、聴き手との共有感覚のものと化す。

各所、各所、弾きながら自分の姿、自分の集中度に神経がゆきわたり、綿々と紡ぎ出されるピアノの音とそのゆくえを探っている自分を感じ、ふとすると自分の意識と聴衆の密集度のあいだを行き来している音楽そのものを感じていた。

 

こういったときに語られる音楽は、演奏者と曲と聴衆を温かく結びつけているもの。

 

自分の指から発せられる音なのに、我が身から離れては消えてゆく想いのように解き放たれ、風にのった花びらのごとく空に舞う。こういうときの「音楽」ってほんとうに魔法のように素敵!

 

 

曲目については、中級、上級の生徒たちにはもちろん、ちいさなこどもたちにも「脳裏に残る音楽空間を伝えたい。」・・・そんな思いでとくに自分が小学生、中学生のころに練習した曲を中心に、プログラムを組んだ。

シューベルトの即興曲。技術的には小学生でも弾ける曲もあるし、こどもコンクールの課題にもなる。でもこれらの作品、じつは31歳で没したシューベルトの死の前年に書かれた作品。

病苦に苛まされながら人生の表裏を霞のように感じながらシューベルトが音符に託した思い。・・・とても感傷的で深い思いが詰まっている。

そんな作品であるから「表現」というところまでゆくと、じつに奥深い。

それらをほんものにすこしでも近い演奏で、音楽のこころを伝えようと思った。

 

 

ここであるご父兄からのコンサート感想を挿入しようと思う。

 

「4日はお疲れさまでした。あの舞台に立つまで、練習や段取りなど大変だったのでしょうね。私たちはとても素敵な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。 

 

私はとにかくシューベルトは全般ですが、特に即興曲は今まであまり面白いと思えないというか、なんとなく合わないという思い込みが強かったのですが、先生の演奏を聞いてまったく変わりましたので、それだけでも本当にコンサート聴きに行ってよかったと思えるくらいでした。

特に最後のOp.90-4は先生の子供たちへの愛情?みたいなものが感じられ、とても暖かい気持ちになりました。

 

後半のチェロとのデュオもとても楽しめました。チェロの音色をあんなに近くで聴いたことなかったので、・・・娘は「愛の夢」がとても気に入って、いつかピアノソロで弾きたいと言っています。

チェロがメロディーを奏でたトロイメライやノクターンも素敵でしたが、私はいちばん「序奏と華麗なるポロネーズ」が気に入りました。ピアノのリズムがパシッと聞こえてきて、思わずノリノリになってしまいました。

初めて聴いた曲でしたが大好きになりました。主人も思わず最後に「yeah!」と叫んでいました。

あの日のコンサートのCDが欲しいくらいです。

また先生の演奏を聞ける機会を楽しみにしています。」

 

 

今回のデュオではひと月前を切って思わぬハプニング?の連続で気もちが飛びそうになった時期もありましたが、生徒ご父兄や社会人生徒たちの快いサポート、また古くからの友人たちからのエールと機知を得て、音楽のこころと強さを信じ、自分の本分に徹することが出来、ちいさな生徒たちにも夢を与え、つつがなくコンサートを終えられたこと、感謝の念でいっぱいです。

 

 

最後に、このコンサートのために3年ぶりに東京から駆けつけてくださった長年のファンの方からこんな祝辞が。・・・

「Congratulation  for  the  wonderful  achievement !! 

 And Merry Christmas !」

 

今年はここ近年のいろいろな勉強が統合され、自分自身の昇華はもちろん、生徒たちのめざましい上達ぶりにもつながりをみせる一年となりました。

 

有り難く、こころに響く強い言葉でした。

 

 

 

 

 

 

実りの秋に

投稿日:2011-11-22

この秋、先月末より生徒たちの受賞続きである。 

9月末にパリでの気分転換から戻って帰国当日からのレッスンから翌月に入ってすぐに行なった休日返上の試演会は少々きつかったが、今となってはがんばってきた甲斐がある。

入ってきて2、3年の生徒たちから1年余の生徒までまちまちだ。コンクールなどで結構がんばってきた生徒たちがほとんどだが、あらためて基本に忠実に教えてほしい、と私のところに来て以来である。いずれも漸く身をもって教えてきた成果が出てきた、というところ。

 

技量も少ないかわりにこれまで勉強した曲も少ないというパターンはよくもわるくもこれ迄の勉強量が少ないので、私のレッスンでの教えが素直に入り、もちろん性格にもよるが、成果が出るのが早いというケースもある。一方、コンクール歴もあってとり上げてきた曲数も割かし多い人ほどいろんな情報が頭にも身体にも入ってしまっていて、まずはニュートラルに戻すまでに時間がかかる、というケース。後者のほうが教える側にとってそうは容易くない、ということはすぐにおわかりだろう。でもこうして徐々に芽が出始めたこと、とても嬉しく思う。

 

とくに先のショパンコンクールin ASIA地区予選では小学5,6年部門に参加した3名全員が受賞。このほど行なわれた日本ピアノ教育連盟ピアノオーディションでも小4生徒がふたりとも賞に入った。同門のなかで凌ぎ合う、というのはなかなかいい環境になろう。

また兄妹、姉妹そろって同時期に受賞というペアが2組いて、これも家族のなかにいい音楽の風が湧き起こっている証拠であり、とても喜ばしいのである。刺激しあい支えあって、いい音楽環境を家のなかに持ち続けてもらいたい。

 

でもこういったコンクールでの受賞というのはひとつのバロメータであり、温かい気もちにはなるがいつまでも飛びあがっているほどの大した意味はない。地区予選を通過したら、大喜びできるのは当日限り!ひと晩明けたら次の大会に向かって自分の演奏を磨いていく努力をする責任が課せられている。

よしんばそういう努力ができなければ、予選通過できなかったひとたちに対して失礼というものだろう。少なくとも私は、そう思って指導している。

 

今回の生徒たちの受賞も、ここまで来るには念の入ったレッスンと本人の努力の積み重ねの連続であり、さらにここから発展していってもらわなくてはいけないし、他の生徒たちの中にも芽吹く数歩手前にいる生徒たちは多い。またこういったコンクールとは関係なく充実した理解度をアップさせている社会人を含むアマチュア生徒も多い。

 

 

さて私は、というと、3日のペライアのリサイタル、大いに楽しんだ。

いぶし銀のような人生の実りを感じさせる音だった。

最初に弾かれたフランス組曲第5番は、現代ピアノの伝統的タッチによる正統なバッハ演奏。

素晴らしく軽やかで、舞曲のリズミカルな側面を抽出していた。

 

前半最後のブラームスが一番充実していたように思えたが、ゆっくりめのテンポで丁寧な歌ごころをたっぷりと聴かせる。後半1曲目のシューマン「こどもの情景」も卓越だった。

左手がとても美しく、ほんとうに10指のコントロールが美しい。

 

奏者後方で聴いたが、上半身の使い方や腕の巧みな使い方などを、私はまるでレッスン生のようにじっくり見入り、聴いていた。後半ラストのほうでは、ほんの僅かにアンバランスな気配が出てきた感触。・・・それでもアンコールも数曲、精力的に聴かせてくれた。

実はペライア、指の故障で演奏活動から遠ざかっていた時期があったのだが、こうして彼のピアニズムを再び生で聴くことができたことを嬉しく思うし、そういった往年のファンとみられる姿も多かった。

そうしてきちんと身についた身体の動きというものは年齢に関わらず、美しい動きをともなってタッチの美しさ、そして音の美しさとつながるものだ、とつくづく思った。

 

このごろ私は来月初めにコンサートを控え、レッスン後にも練習の毎日。

昨年は生れてはじめての腱鞘炎騒ぎ(?)・・・(手が痛いと言いながら普通に弾けていたのだからまったくもって???なのであったのだが)、複数の治療を受けながら留学時代の友人から聞いていたアレクサンダー・テクニークのことが気になっていたところ、今春になって名フィルの友人に先生を紹介してもらい、またその後他の講座にも出るなどしてこのレッスンを受け始めた。

 

このテクニークは座る、立つ、膝をおとすなど日常的な動作のなかで自分の体の動きを見つめながら内在する自分の動きを洞察し、ありのままの動きを取りもどす、とでもいったらよいか。これがもちろんピアノにも応用でき、私のレッスンでもすでに効果が出てきている。

イギリス、オランダなどではバレエ、舞踊、楽器演奏などとこのテクニークとの関連はとても自然で広く知られており音楽大学のなかでもとり入れられているところもあると聞くが、日本では・・・以前日本ピアノ教育連盟の研究大会ですこし触れられたと記憶するが、まだまだ知られていない。

 

習慣となっている身の動きの微調整を図ることは、最初はとくにたいへん繊細でむずかしいことでもあり、ピアノ・テクニックの習得とたいへん似ていると私は思う。

レッスンでわかった、わかったと思ってもまたすぐ自分の習慣に戻るから、身体が自然にこちらのほうが合理的で自然なからだの動きである、と十分納得するにはある程度の時間がかかる。ただ分かりかければある程度すっと進むところも、ピアノ・テクニックと同じだ。

でもまた「わかった。」と思ってもその奥義は深いもので、じわじわと自分のなかで熟成するのにはまた時間が要るだろう。

 

いずれにせよ、ひとつひとつの動作、所作を丁寧にこころして行なう、という弁えに通じること、それは茶道や華道といった禅の精神につながることだと直感している。

 

ひと昔前には「禅のこころがわからずして音楽も分からない。」という言葉もあったが、今どきのこどもたちにそういった精神をつたえてゆくことは途方もなく遠いような気もするが、音楽の精神とはそういうものだ。

 

私はピアノを通して、これからも確実に音楽のこころを伝えてゆきたい、と思っている。

 

キーシンを聴いて

投稿日:2011-10-29

9月にパリで、友人とパリ管ほかのコンサートに出かけた際、「今いいピアニストって誰かな?」みたいな話になり、プレトニョフ、ペライア、アルゲリッチ、キーシンなどの名前が挙がった。

でも8月の終わりにBS放送でヴェルビエ音楽祭の模様を見た折、キーシンのヴァイオリン伴奏を聴いてなんか噛み合わずというかやけに身振りが大きく「あれ?」と思ったこと(しかしそのあとのソロはすばらしかったけどね。)を思い出して話すと、その友人も首をかしげて「う〜ん、私はキーシンってあんまり好きでないのね。なぁんか無駄な動きが多いように思うの。」って。やっぱそうなのかなぁ?と神童と言われた頃からだいぶ久しいのでよくわからないけど、等々思いつつ。・・・

 

そんなことを話していたら奇遇にも名古屋の友人からメールが入り、「こんどの名古屋でのキーシンリサイタルの招待が出ますが、出かけられませんか。」・・・・・・!?そこはひとつやはり、とうことで「今パリに来ています。その件、有り難く頂戴いたします。」(^^))-☆と返信。

 

 

さて時は過ぎ、先の月曜、私の急な申し出に我が家に調律の方が来てくださった。部分的に調律がおかしくなっているのと、なぁんか弾きにくいので来てもらったもの。

整音が終わり、こんどのキーシンリサイタル聴きに出かけるのですが、と話しかけると「あ、こんどのキーシン、私、担当なんです。」って嬉しそう。 

あら、まぁ!

 

 

当日、6時45分の開演に5時40分にレッスンを切り上げさせてもらって、出かける。1時間あれば悠々着くと思いきや、スタバのエスプレッソをひっかけて結構ぎりぎり。

 

いや、キーシンは偉大でした。とてもよかった。

やはり彼はソリストです。本物のピアノを久々、聴きました!

 

この日は近頃はいっしょに住んでいてもなかなか話している暇もないくらいのすれ違いぶりの母をいざなった。

彼女はほんとにいいものしか耳を傾けられないひと。

「すこし素晴らしい」くらいなら、普通なら途中で平気で居眠っているところが、今回は目を輝かせてずっと聴いていた様子。

 

そうして「貴方達のは指運びでしょ。キーシン、あれがピアノの音なのね〜。ピアノってつくづくすごい楽器ね。弦からキーシンの身体までが繋がって見えたわ。」

 

ははぁ・・・(+o+) 貴方達とはどのレベルを指しているの? ($・・)/~~~ 

おこがましい限りじゃないの? あまりに十把一絡げすぎない? 

だって彼はキーシン。・・・はぁ〜、そう、ま、つまりは超特級とそれ以外、ということで。

(そうそう、ほんとにいいものしかわからないみたい。)

 

では、生徒たちはどうなるの?(@_@;) 

 

あ、指並べ〜?(`´) 

 

あのね、日本とヨーロッパではバックグラウンドが全く違うの。

ひとつ音の出しかたから違うの、なのにその認識がね。

だから日々たいへんなことなのよ。

でね、そういった中で一所懸命教えている立場は〜?

 

いやぁ、はい、はい。なるほど、わかりました。

は、はぁ〜。(-。-)y-゜゜゜

 

まぁ、こんな母が元気でいるから、私はいまだ日々探究心に満ちていることができるのだと感謝しております。はい。

 

 

そして私は、というと、キーシンの演奏を聴きながらずっと以前にNHK-BSで聴いたアルカディ・ヴィロドスArcadi Vilodos リサイタルの感動をなぞらえていた。(ウィーンでのリサイタルの模様だったのですが、ビデオ放送でも釘づけで感動してしまったくらいのすばらしさ。生が聴いてみたいものです。)

天賦の耳はもちろんのことだが、音符の隅々にまで傾けられる情熱と誠意、エネルギーの強さと温かさを感じた。

 

キーシン40才、素晴らしい演奏だった。これからの円熟期を迎えて、確実にすばらしい芸術家としての道をゆくことでしょう。

 

こうしてリストイヤーに、ちょっと忘れがたいオール・リスト・プログラムのリサイタルを聴くことができた。

 

 

また私のグランドピアノを調律してくださっているM氏のピアノバランスは「やはり好きだな。」とあらためて客観的に音を聴きながら思ったもの。

 

思えば私がS6を購入したのは、当時のYAMAHA調律師の技量を厚く信頼してのこと。でもその後早期退職で会社を退かれて、後任になかなか満足できず。困り果てていた頃、あるコンクール会場でのピアノバランスがあまりにもいいので、楽屋に「きょうのチューナーは誰ですか?」と。

そこでM氏を紹介され、その後YAMAHAの営業方にその名前を上げると、「Mさんはいいですよ。黒田先生にMさん、いいと思います。」と強く圧してくれた。社の利益をのけてのこの時の営業方の誠意には今もって頭が下がる。

 

 

そんなこんなで、いろいろなことを振返り、感謝のこころでいっぱいになった有難いひととき。 

 

来週3日にはペライアのリサイタルがあり、これも楽しみにしている。

 

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