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ピアノ教室コンセール・イグレック♪


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一年の計が・・・。

投稿日:2012-02-05

節分も明けて、やっと今年初めてのブログです。

皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。

 

先日は名古屋もかなりの積雪で、慣れない雪かきもたいへんでした。

雪が積もると音が吸引されて、とても静かな音の世界になりますね。

読書に向く時間です。

 

さてこのひと月悠長にどう過ごしていたかと言いますと、年末から1週間ほどのお休みはあったものの、三が日明けにコンクール全国大会に参加した生徒たちが複数いたので連絡も気になったし、アジア大会まで進んだ生徒もいて何だかすこしせわしさもあったかな。・・・?それと何より、昨年自分のピアノも上向きのうえレッスンの成果もあがってきた訳だけれど、今年はどういう観点に目を向けて変革していったらよいだろうか、と思いを馳せながらいろいろな本を読み、考察していたもの。

 

 

何冊か読んだ本はいずれも演奏家たち、といっても指揮者、邦楽家、作曲家等が書いているものでピアノ稼業のものはないですが、音響学的な観点からのもの、音楽史的な観点からのもの、日本人と西洋人の身体性また遺伝子的な相違点からの考察。・・・それらをピアノ演奏の観点に置き換えて考察し、日頃からクエスション・マーク的に思っていたいろいろな課題についてthink againの毎日。

 

日頃から思うことって、・・・。

リズム、テンポに対する曖昧さ、レガート感覚の曖昧さ、2声部の聴き分けに対する鈍感さ、左右の手が創るバランス感覚の鈍さ、スラーの無視 etc.

もちろん自分も同じ経過をたどってきたと思う(でも私は一から十まで弾いて教えて頂いたことなんてほとんどない)けれど、どうしてこうも一から十まで弾いて聴かせ、教えなきゃわからないのだろう?と言うより、どうして弾いて聴かせると、こんなにも変わるのだろう?

なのに1週間経つとどうしていとも簡単に戻ってしまうのか、また戻らないケースはどう違うのか。

 

 

そうしてひと月くらいのあいだにまとまった考えがふたつ、みっつ。

これらはとても根本的なことで、ほぼ確実に変革を迫られる。

 

何度も伝え切らないなぁ、と思ってきたことだが、思考観点の提案力とでもいうか、それを何冊かの読書を通して与えられた結果だ。

 

 

例をあげれば単純な話、たとえばソナチネのようなクラシックスタイルの曲で、左手のアルベルティバスの伴奏などをもう少しちいさく、といった注意はごく日常茶飯事。

どうしてそれが容易にできないのか。

またいったいどうしたらすんなりとそれが出来るようになるのか。

 

それは日本人が農耕民族だったことまで話がさかのぼる。

北方の狩猟民族には、狩りのために動物の声とそれ以外の音を同時に聴く必然性があった。

また寒さを逃れるための石造りの住居は残響が豊かで、長く響く音を聴く習慣となったらしい。

 

一方日本人は、植物が繁茂した土壌に住み、屋内では畳、障子などが音を吸収する残響の少ない空間に暮らし、大事な音以外を雑音として片づける習慣がついた。

 

おかげで2声部のバランスを同時に聴くことが習慣的でなく苦手だし、休符を平気でイグノアしたり、・・・。現在フローリングの家屋になり、畳の部屋がない家もめずらしくない時代になりはしたけれど、この聴覚に関するDNAはそう簡単に消し去る訳にはいかない。

 

そう、やっぱりクラシックは西洋人向けのもの?日本人には到底むずかしい?!

 

けれど一方で日本語は子音が多く、倍音の豊かな言語。

西洋の石造りの家屋や都市構造では、音が反射するたびに高次の倍音から吸収され、基音が増幅するのに対し、日本のような家屋構造では、倍音がよく聞こえる環境になるのだそうだ。

先に「大事な音以外を雑音」と認識する、と書いたが、騒音のなかでもピンポイントで聴きとりたい音にフォーカスできる才覚には優れているらしい。

 

ではどうすればよいか。

 

他のクエスション・マークにも、一休さん的逆転思考でもってご名答!

 

拍感に関すること、技法上いまひとつ伝え切らなかったこと、練習する割にどうしていつまでも表現になってこないのか、とギクシャクした思いに駆られてきたことについての事柄と、具体的解決法。・・・

日本人の特質を使って解決できるものもあり、特質ゆえに徹底的に訓練してゆく必要があるもの在り。

 

 

結果何が変わったかは、今レッスンを受けている生徒たちがいちばんよくわかるだろう。

(ひとつの指示の背後にこんなにたくさんの考察の経過があると知ってびっくりかもしれないけれど。)

とくに上級生徒たちには即効力を持って伝わる者もいるが、これら根本的なことは初心者たちのレッスンから確実に伝えてゆくべきことなのだとじつに思う。

 

クラシック音楽は横に流れるエネルギーを確実に把握する以外、道はない。

そういう歴史を踏んだ音楽なのだから。

 

「ドミソ、シファソ、ド・ミ・ソー♪」という和声構造も、こうした縦の系列は理論としてはあっても演奏の実践上は横の系列で捉える事ができなければ「何かがおかしい。」ということになり、本物の音楽にはなり得ない。

 

一つ一つの音がどこへ向かいどこに吸引されるのか、音のエネルギーがあり、拍のエネルギーがあり、リズムのエネルギー、アーティキュレーションによるエネルギー変換、そのすべてを読みとり、自らの耳で丹念に聴きとる必要がある。

初期の段階から素直に学べば、それはたいしてむずかしいことではない。

いずれすべての生徒たちに還元があるだろう。

 

やはり変革には視坐の転回あるのみ。

 

 

さて「一年の計は元旦にあり」のところ「一年の計が1月にあり」と相成りましたが、さぁ、今年もがんばります。

初詣のおみくじは、大吉!この地元の神社で引くおみくじはいつも当たるので、気もちを引き締めて精進したいと思います。

 

皆さま、本年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

*レッスン初めの前日に日帰りで出かけた、冬の京都のスナップを。

                  (無鄰庵から青蓮院へ

 (長楽館・洋館)

(二寧坂手前にある八坂の塔がお庭から見える

日本画家・東山艸堂の私邸・The Garden Oriental Kyotoでのランチ)

 

               (三年坂界隈にて)

 

 

       (嗚呼、祇園佐川急便なり!)

 

        (八坂の塔、祇園西花見小路)

 

音楽のこころ

投稿日:2011-12-12

4日のクリスマスコンサートを無事終了した。

 

コンサート明けのレッスンにて。

小学校低学年の生徒さんご父兄から「ありがとうございました。素晴らしいレッスンでした!あんな近くで先生の素敵なドレス姿、夢見るようなきれいなピアノの音。・・・こどもも指を動かしてノリノリでした。ほんとうにいい思い出になると思います。」

・・・「よかったね!」と思わずにっこり。笑顔のキャッチボールが続く。

 

「僕もいつかあんな風にピアノを弾いてみたいです。」

「うん、そうか、そうか。よかったね。」

 

若いお母さま方にはわかる由もないと思うけれど、真に誠意をこめた演奏会をひとつまとめる、というのは多大な時間と情熱あってのこと。

コンサート前のちいさな生徒たちのレッスンを休講にし、レッスンの一環として生のピアノ演奏を聴くクリスマス会としてやってきた。それにも関わらず多用で欠席という生徒さんもいたなか、これらの言葉はジンと沁みた。

 

 

次のレッスン生のお母さまも「私のちょうど隣りに座っていた方が、前半の先生のピアノソロが終わったところで目頭を拭いていました。休憩時間にお話しすると<感激して泣いてしまいました。>とおっしゃってました。」

 

「さもありなん。」というほど、今回の演奏は自分としても納得のいくものだった。

自分の指から創り出されるピアノの音が、指からこぼれ落ちる瞬間まではこう弾きたい、とかこう弾こうと思っているわけだが、放たれる瞬間瞬間にそういった個人的な思いから解き放たれ、聴き手との共有感覚のものと化す。

各所、各所、弾きながら自分の姿、自分の集中度に神経がゆきわたり、綿々と紡ぎ出されるピアノの音とそのゆくえを探っている自分を感じ、ふとすると自分の意識と聴衆の密集度のあいだを行き来している音楽そのものを感じていた。

 

こういったときに語られる音楽は、演奏者と曲と聴衆を温かく結びつけているもの。

 

自分の指から発せられる音なのに、我が身から離れては消えてゆく想いのように解き放たれ、風にのった花びらのごとく空に舞う。こういうときの「音楽」ってほんとうに魔法のように素敵!

 

 

曲目については、中級、上級の生徒たちにはもちろん、ちいさなこどもたちにも「脳裏に残る音楽空間を伝えたい。」・・・そんな思いでとくに自分が小学生、中学生のころに練習した曲を中心に、プログラムを組んだ。

シューベルトの即興曲。技術的には小学生でも弾ける曲もあるし、こどもコンクールの課題にもなる。でもこれらの作品、じつは31歳で没したシューベルトの死の前年に書かれた作品。

病苦に苛まされながら人生の表裏を霞のように感じながらシューベルトが音符に託した思い。・・・とても感傷的で深い思いが詰まっている。

そんな作品であるから「表現」というところまでゆくと、じつに奥深い。

それらをほんものにすこしでも近い演奏で、音楽のこころを伝えようと思った。

 

 

ここであるご父兄からのコンサート感想を挿入しようと思う。

 

「4日はお疲れさまでした。あの舞台に立つまで、練習や段取りなど大変だったのでしょうね。私たちはとても素敵な時間を過ごさせていただきました。ありがとうございます。 

 

私はとにかくシューベルトは全般ですが、特に即興曲は今まであまり面白いと思えないというか、なんとなく合わないという思い込みが強かったのですが、先生の演奏を聞いてまったく変わりましたので、それだけでも本当にコンサート聴きに行ってよかったと思えるくらいでした。

特に最後のOp.90-4は先生の子供たちへの愛情?みたいなものが感じられ、とても暖かい気持ちになりました。

 

後半のチェロとのデュオもとても楽しめました。チェロの音色をあんなに近くで聴いたことなかったので、・・・娘は「愛の夢」がとても気に入って、いつかピアノソロで弾きたいと言っています。

チェロがメロディーを奏でたトロイメライやノクターンも素敵でしたが、私はいちばん「序奏と華麗なるポロネーズ」が気に入りました。ピアノのリズムがパシッと聞こえてきて、思わずノリノリになってしまいました。

初めて聴いた曲でしたが大好きになりました。主人も思わず最後に「yeah!」と叫んでいました。

あの日のコンサートのCDが欲しいくらいです。

また先生の演奏を聞ける機会を楽しみにしています。」

 

 

今回のデュオではひと月前を切って思わぬハプニング?の連続で気もちが飛びそうになった時期もありましたが、生徒ご父兄や社会人生徒たちの快いサポート、また古くからの友人たちからのエールと機知を得て、音楽のこころと強さを信じ、自分の本分に徹することが出来、ちいさな生徒たちにも夢を与え、つつがなくコンサートを終えられたこと、感謝の念でいっぱいです。

 

 

最後に、このコンサートのために3年ぶりに東京から駆けつけてくださった長年のファンの方からこんな祝辞が。・・・

「Congratulation  for  the  wonderful  achievement !! 

 And Merry Christmas !」

 

今年はここ近年のいろいろな勉強が統合され、自分自身の昇華はもちろん、生徒たちのめざましい上達ぶりにもつながりをみせる一年となりました。

 

有り難く、こころに響く強い言葉でした。

 

 

 

 

 

 

実りの秋に

投稿日:2011-11-22

この秋、先月末より生徒たちの受賞続きである。 

9月末にパリでの気分転換から戻って帰国当日からのレッスンから翌月に入ってすぐに行なった休日返上の試演会は少々きつかったが、今となってはがんばってきた甲斐がある。

入ってきて2、3年の生徒たちから1年余の生徒までまちまちだ。コンクールなどで結構がんばってきた生徒たちがほとんどだが、あらためて基本に忠実に教えてほしい、と私のところに来て以来である。いずれも漸く身をもって教えてきた成果が出てきた、というところ。

 

技量も少ないかわりにこれまで勉強した曲も少ないというパターンはよくもわるくもこれ迄の勉強量が少ないので、私のレッスンでの教えが素直に入り、もちろん性格にもよるが、成果が出るのが早いというケースもある。一方、コンクール歴もあってとり上げてきた曲数も割かし多い人ほどいろんな情報が頭にも身体にも入ってしまっていて、まずはニュートラルに戻すまでに時間がかかる、というケース。後者のほうが教える側にとってそうは容易くない、ということはすぐにおわかりだろう。でもこうして徐々に芽が出始めたこと、とても嬉しく思う。

 

とくに先のショパンコンクールin ASIA地区予選では小学5,6年部門に参加した3名全員が受賞。このほど行なわれた日本ピアノ教育連盟ピアノオーディションでも小4生徒がふたりとも賞に入った。同門のなかで凌ぎ合う、というのはなかなかいい環境になろう。

また兄妹、姉妹そろって同時期に受賞というペアが2組いて、これも家族のなかにいい音楽の風が湧き起こっている証拠であり、とても喜ばしいのである。刺激しあい支えあって、いい音楽環境を家のなかに持ち続けてもらいたい。

 

でもこういったコンクールでの受賞というのはひとつのバロメータであり、温かい気もちにはなるがいつまでも飛びあがっているほどの大した意味はない。地区予選を通過したら、大喜びできるのは当日限り!ひと晩明けたら次の大会に向かって自分の演奏を磨いていく努力をする責任が課せられている。

よしんばそういう努力ができなければ、予選通過できなかったひとたちに対して失礼というものだろう。少なくとも私は、そう思って指導している。

 

今回の生徒たちの受賞も、ここまで来るには念の入ったレッスンと本人の努力の積み重ねの連続であり、さらにここから発展していってもらわなくてはいけないし、他の生徒たちの中にも芽吹く数歩手前にいる生徒たちは多い。またこういったコンクールとは関係なく充実した理解度をアップさせている社会人を含むアマチュア生徒も多い。

 

 

さて私は、というと、3日のペライアのリサイタル、大いに楽しんだ。

いぶし銀のような人生の実りを感じさせる音だった。

最初に弾かれたフランス組曲第5番は、現代ピアノの伝統的タッチによる正統なバッハ演奏。

素晴らしく軽やかで、舞曲のリズミカルな側面を抽出していた。

 

前半最後のブラームスが一番充実していたように思えたが、ゆっくりめのテンポで丁寧な歌ごころをたっぷりと聴かせる。後半1曲目のシューマン「こどもの情景」も卓越だった。

左手がとても美しく、ほんとうに10指のコントロールが美しい。

 

奏者後方で聴いたが、上半身の使い方や腕の巧みな使い方などを、私はまるでレッスン生のようにじっくり見入り、聴いていた。後半ラストのほうでは、ほんの僅かにアンバランスな気配が出てきた感触。・・・それでもアンコールも数曲、精力的に聴かせてくれた。

実はペライア、指の故障で演奏活動から遠ざかっていた時期があったのだが、こうして彼のピアニズムを再び生で聴くことができたことを嬉しく思うし、そういった往年のファンとみられる姿も多かった。

そうしてきちんと身についた身体の動きというものは年齢に関わらず、美しい動きをともなってタッチの美しさ、そして音の美しさとつながるものだ、とつくづく思った。

 

このごろ私は来月初めにコンサートを控え、レッスン後にも練習の毎日。

昨年は生れてはじめての腱鞘炎騒ぎ(?)・・・(手が痛いと言いながら普通に弾けていたのだからまったくもって???なのであったのだが)、複数の治療を受けながら留学時代の友人から聞いていたアレクサンダー・テクニークのことが気になっていたところ、今春になって名フィルの友人に先生を紹介してもらい、またその後他の講座にも出るなどしてこのレッスンを受け始めた。

 

このテクニークは座る、立つ、膝をおとすなど日常的な動作のなかで自分の体の動きを見つめながら内在する自分の動きを洞察し、ありのままの動きを取りもどす、とでもいったらよいか。これがもちろんピアノにも応用でき、私のレッスンでもすでに効果が出てきている。

イギリス、オランダなどではバレエ、舞踊、楽器演奏などとこのテクニークとの関連はとても自然で広く知られており音楽大学のなかでもとり入れられているところもあると聞くが、日本では・・・以前日本ピアノ教育連盟の研究大会ですこし触れられたと記憶するが、まだまだ知られていない。

 

習慣となっている身の動きの微調整を図ることは、最初はとくにたいへん繊細でむずかしいことでもあり、ピアノ・テクニックの習得とたいへん似ていると私は思う。

レッスンでわかった、わかったと思ってもまたすぐ自分の習慣に戻るから、身体が自然にこちらのほうが合理的で自然なからだの動きである、と十分納得するにはある程度の時間がかかる。ただ分かりかければある程度すっと進むところも、ピアノ・テクニックと同じだ。

でもまた「わかった。」と思ってもその奥義は深いもので、じわじわと自分のなかで熟成するのにはまた時間が要るだろう。

 

いずれにせよ、ひとつひとつの動作、所作を丁寧にこころして行なう、という弁えに通じること、それは茶道や華道といった禅の精神につながることだと直感している。

 

ひと昔前には「禅のこころがわからずして音楽も分からない。」という言葉もあったが、今どきのこどもたちにそういった精神をつたえてゆくことは途方もなく遠いような気もするが、音楽の精神とはそういうものだ。

 

私はピアノを通して、これからも確実に音楽のこころを伝えてゆきたい、と思っている。

 

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