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ピアノ教室コンセール・イグレック♪


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コンクール考

投稿日:2012-07-18

 先週末のピティナコンペ、セカンドチャレンジの予選で高2生徒がF級通過。

ここ数年奨励賞など僅差で惜しかった経験もありましたが、各種コンクールで勉強態度や練習への取り組みなどに対し、常に新たなアイディアを取り入れ、果敢に誠実に変革をもたらしてきた結果だと思います。

予選直前のレッスンでは、この生徒本人のこころからの表現が聴こえ、手ごたえを感じていました。こうした本人の努力の末に数年という時間を経てつかんだ結果というのは、教える側にとっての喜びもひとしお。

 

 

一昨日の海の日は、中日ピアノグレードテストの岐阜審査に出かけた。

6時起きで岐阜駅前・じゅうろくプラザへ。

9時スタート、参加者総勢120名で、終了は18時すぎ。

かなりハードでしたが、参加者の真剣な取り組みにじっと聴き入り、ペンを走らせた。

 

近年コンクール隆盛の時代にあって、この中日ピアノグレードテストではバイエル、ツェルニー、クラマー・ビューローなどの練習曲と自由曲を組み合わせてテストに参加するもので、若い頃からこうしたエチュードをホールで発表するという場の持てる有意義で希少な機会と言えるかもしれない。

自宅の練習室やレッスン会場などでは案外上手く弾けている様に感じるくらいの塩梅でも、ホールでエチュードを演奏するとなると、テンポの微妙な揺れやちょっとしたタッチの不揃いなどが明確に映し出され、リズムの正確、厳格な把握が求められ、言わば「ごまかし」の利かない演奏発表のまたとない機会となろう。素人耳には、自由曲など音楽性だけで綺麗に聴こえていることも多々あるのだろうが、専門家の耳にはそうはいかない。

またテクニックにもロマン派以前とそれ以降では違うので、違いをわかって使い分けなければいけないのだが、混同しているケースも多い。

ツェルニーを弾くには、ピアノ演奏技術の基本が求められる。

 

エチュードと自由曲の仕上がり具合は、酷なようだが、ほとんどの場合が比例している。エチュードにおけるテクニックレベルが、自由曲の表現に反映される所以。

 

 

さて昨日は疲れが残っていたが、朝から出向く用件あり。

午後との予定に空き時間が出たので、日ごろ生徒たちのピアノでお世話をかけっぱなしのYAMAHA調律技師の方とお昼をご一緒した。

いろいろな話題に及び話が弾んだが、ある話が印象的だった。

 

この技師のお知り合いの息子さんで、現在は東京芸大4年生、とか。

こどもの頃からコンクールではいつも優秀な成績で、ショパン、リスト、ラフマニノフなどはバッチリ!でも片やバッハ、モーツァルトなど酷かったらしい。さぁて音大受験となった段階で、それまでついていた先生と喧嘩になっちゃったそうだ。詳細はよくわかりませんが、「コンクールはしばらくやめて、きちんと勉強しなさい。」みたいなことになったそうな。・・・

コンクールで一所懸命がんばってきて、いつも賞入り。それなのに「きちんと勉強、ってそれどういう意味?」ってことなんでしょう。

リストがバンバン弾けるのに、ツェルニーをやったことがない。

バッハを弾いても、最後の結びの和音でふわ〜っと手をあげる。

「でもそれって本人大真面目なんだよね。うわぁ〜、困ったね!」と苦笑い。

 

でも受験前の3ヶ月で、かなりバッハがバッハらしくなったそうな。・・・

そこは長年のコンクール経験で培った集中力があろう、というもの。

ただその技師の方が「バッハよくなったね。」と声をかけたら「とにかく気もちを殺して淡々と弾くようにしてるんです。」と返ってきた、とか。

それもどうでしょうね、そういう問題ではないのですけどね。

Bachのカンタービレ精神や、如何に?・・・

まぁ受験前の究極の作戦ってとこでしょうか。

 

コンクールよかれ、と親子でがんばってきた、その息子さんのお父さまの心中もたいへんだったことでしょう。 

「芸大に入ったものの、入ってから苦労の連続では?」

「今4年生かな、最近コンクールでも聞かなくなったし、ご無沙汰なんです。」でこの話題は結ばれた。

 

 

私は生徒たちに「コンクールは使い切る。コンクールに使われない。」が、モットー。

コンクール参加の機会をいいモチベーションにして年に3回も4回もコンクールに参加、というのもよいかな、という年代は、おおむね小学中学年までだろう。

それ以上のレベルになったら自分の適性、ウィークポイントを自覚して実力をつける期間をもつことだ。

テクニックの見直し、楽譜の読み方の基本があるか、ソルフェージュ能力も問われるし、アナリーゼしたり、曲の背景にも思いを馳せられるかなどの教養度も必要だ。

 

実力さえあれば、いつでもコンクール路線に乗ることは出来る。

上級のコンクール参加は、あくまで実力ある者の修練の場であるべきだ。

 

コンクールから離れたらピアノが出来なくなるのではないか、という相談もよく受けるが、もうそう思った瞬間に「コンクールに飲まれている。」と私は考えている。

 

 

きょうはコンクールの話ばかりになったが、ご父兄たちがいろんな情報に囲まれている時代にあって、要は先生と生徒の信頼関係以外に道はない、という思いを強くしたここ数日の出来事であった。

 

クリア連続の日々!

投稿日:2012-05-13

先週4日に「ラ・フォル・ジュルネ金沢」を聴きに出かけました。

ここのところ何かかと忙しい日々で、もう1週間が経ってしまったようです。

 

今年もまたいろいろなコンサートを聴きました。

今回は1日だけの滞在で、チョイスしたのは次の5公演。

最初のOEKとのドマルケットのチェロコンチェルトに続いて、ドミトリ・マフチンのVlnとピアノ。話題のポゴレリッチのピアノに、マンゴーヴァのピアノ、そしてトリオ・ショーソンです。

 

 

何といってもポゴレリッチの演奏は際立っていました。

ラフマニノフのソナタ第2番とバラキレフのイスラメイ、という予定に本人の希望で1曲追加された、ということで、入り口前の掲示板に書かれていたのは、ショパン:ノクターン第2番。

「へぇ〜。」と思ったのは私だけでないでしょう。

このコンサート、金沢の友人が取ってくださったおかげで前から2列め!

演奏が始まる、と思いきやポゴレリッチの手が宙に舞う。

「あれ?」「ん?」「あ?その手のポジション、ちがう。」

と次の瞬間、ノクターン第13番ハ短調が鳴りだした。

(公演後、掲示板はとくに係員がすっ飛んでいって訂正の紙を張られた、という形跡もなく、こういうところがラ・フォル・ジュルネらしいというか、フランスっぽくていいなぁ。!(^^)!・・・)

 

深い。し〜ん、としてまんじりともせず、誰も身じろぎもしない。

こんなショパン、聴いたことがない

ラフマニノフではまるで異次元の空間に連れていかれたように、音がスローモーション化して溶けてしまいそうだ。

偉大な音の渦のなかでピアノの倍音の連鎖を聴いているかのような錯覚に陥った。

また、イスラメイの冒頭の、シャープで且つあんなにやわらかな音、ちょっと忘れられない。。

 

これはポゴレリッチの哲学であり、凡人にはどうにも表現出来っこないパフォーマンス。

ピアノという楽器の演奏を完璧なまでに突き詰めていくとこうなるだろうが、この音響の連鎖は彼の美学であり、あまりに独特。唖然、まさに圧倒。

いろいろな理由で休止活動の時期もあったと聞いているが、1980年代のポゴレリッチを知っている年代としては「とにかく聴衆の前に出てきてください。m(__)m」と叫ばずにはいられない鬼才ぶりなのだ。

ワンフレーズワンフレーズが濃厚で、深く深く、こころに身体に浸み入ってくる。日常の感覚とは別次元なので、時間が止まってしまうかのよう。

 

プログラムの追加で1時間となったポゴレリッチ公演の後、マンゴーヴァとピアノ公演が続いた。

彼女も異彩を放つかなりの鬼才天才ぶりの実力派なのだが、ポゴレリッチのあとでは何だかほっとしたから奇妙なものである。

 

    

 

       

 

 

その後の1時間はお買いものでリフレッシュ。さいごにトリオを聴いて帰途についた。

今年も音楽学校の森崎先生とご一緒したが、お互い日頃はレッスンの毎日で、なかなか聴きたいコンサートがあってもままならない。

毎年ラ・フォル・ジュルネでは、心おきなくコンサート鑑賞できる、それもピアノに限らず、室内楽、オーケストラ、今年は聴けなかったが声楽などいろいろなジャンルのものが同じ日に聴けるという

音楽三昧ができるのは有難い。

 

久しぶりにコンサートを聴けて、2公演あたりでとてもリラックスして眠たくなった。身体がほぐれたようだ。

いい演奏というのは倍音の響きで演奏者の骨が響くから、と言われている。その振動が聴衆の骨の振動にも伝わり、奏者と聴き手が波長を合わせるのだ。だからリラックスして演奏中居眠る人がいるけれど、それもひとつの鑑賞法。

さて日頃の生徒たちの演奏では、多少上手くても「骨まで浸みる」ってことはないですね〜。(+o+)

 

 

奇しくも翌日は、ピティナコンペ参加生徒たちの試演会でした。(*^^)v

14名が発表会並の演奏をまとめあげて弾いていましたが、まぁ、これから集中力UPのお手並み拝見、というところです。

でも連休の中日によくがんばりました、ということで、ラ・フォル・ジュルネの記念ファイルをお土産にプレゼント。(^^♪

 

 

さて、この頃いろいろなことが一気に次々解決して、安堵の連続でした。

 

先に話した試演会の日は、文化小劇場をお借りしての会でしたが、残った時間でホールレッスンをしました。

ホールでのレッスンというのは初めてでしたが、生徒たちにとってもとてもいい機会になりました。

 

レッスンでの私は、生徒たちの演奏がまとまってこれば来るほど、出だしの音から結びの音から、そのタッチはどうなの?そこのディナーミクはどうなっているの?と、それはそれは細かい!(と思う。)

でもほんとに繊細な響きについてはなかなかその奥義を伝え切れないことも多いのだが、ホールでは一音鳴らしても、また私が「こういう音よ。」と生徒に代わって音を出してやっても、その音の違いが鮮明に反映されるので、生徒たちの吸収力の凄まじいこと。

また「このフレーズのこういうところの音を聴くのよ。」と耳センサーをどこへもっていったらいいのか生徒の耳の照準をナビゲートすることで、普通ならホールで自分が出す音に戸惑っている時間を最大限短縮することに成功!こういうところでは自分の演奏経験が如実に発揮され、感慨深い。クリアNo.1!

 

 

2番めに、昨年のラ・フォル・ジュルネ金沢で、何気なく並んだ東大オケの整理券の列で知り合った福井のひとがいる。親子さんで、娘さんのほうは就職して名古屋に住んでいるとのこと。大学生時代までバイオリンをやっていて復帰したいのだが、アマチュオケに入ろうか迷っていて、またどこのオケが自分に合うかもよくわからない、と不安そうだった。そこで名古屋に戻ってから知人からの情報をまわして差し上げて、新名古屋交響楽団に入り、3月には定演に招いてくださった。このアマオケは元名フィルフルート奏者寺本義明氏が監督をつとめるオケで、かなりレベルが高い。

その後、無事にやっているだろうか、と気がかりだったが、その定演の日は本人も忙しく、会場で顔を合わすタイミングもなかったので、このGWまたラ・フォル・ジュルネ会場でお会いできるのを楽しみにしていた。お母さまともまた再会することができ、とても嬉しそうなお二人のお顔を拝見し、この巡り合わせをお手伝いできてよかったとしみじみ思った。クリアNo.2!

 

 

次はこの夏からベルリンに引っ越すことになった知人から小学生の娘さんたちのバイオリンの先生探しの相談を受けていたのだが、知人の伝手をたどってベルリン在住の名フィル客演コンサートマスタ―が面倒をみてあげよう、というところまで話が進んだ。しかしながらこれでよかったのかな、と思う節あり。まったくひとの紹介というのは難しい。(-。-)y-゜゜゜

まこと厄介な話だったが、直接そのみてあげようというバイオリニストに話をしてみたら十分納得でき、クリアNo.3!

 

 

この連休に発ち、向こう3年間アメリカに医師として修行に出かける社会人生徒さんが、留守のあいだ自分のGPを私の生徒さんに無料貸出したい、と申し出てくださった。

私はすぐにGPを持っていない小学生の生徒を紹介したが、なかなかピアノの音のご近所問題で上手くいかず、ある中学生のところへいくことになった。でもこの生徒、まだまだ仕込みがこれからの生徒で、タッチは不揃いだし、練習時間は多くとられる年代だし、と気になることだらけだったのだが、この度このピアノに腕利きの調律師がつくことになり、クリアNo.4!

 

 

ある社会人生徒のレッスン。 

彼女、とても指はよく動く。でも発音にブレがあり、いい音色に結びつかない。 本人もよくわかっているのだが、なかなかクリアできない。 

私はずっと彼女の座り方が気になっていたところ、あるピアノ雑誌の今月号に紹介されていた座り方チェックのポイントをいっしょにやってみた。 

「坐骨で座る」という基本だ。 まるで手品のように、直後彼女の音が激変。 

ラフマニノフの前奏曲の繊細な音群が、静かに紡ぎだされた。クリアNo.5!

 

 

お次はまだまだ年端のいかない生徒の話だが、力は十分あるくせになかなか曲に集中できない、という生徒がひとり。私のもとに来てまだ1年未満。

私、率直に言って「音楽の精神性」ってものが通じないヤツ(?)は嫌いです。

でも音楽が好きなのは、彼女のピアノを聴いていればすぐにわかる。

だから「なんで一体、いつまでもそんななの?」と気になっていたのです。

 

が、最近になってお母さまが或ることを話してくれました。

ちょっと傷心するようなことがあって以来、コンクール仲間だったあるひとへの負けん気から抜け切らないようです。

お母さまには話しましたが、きょうの彼女にまだ笑顔はない。

話伝わってないな、と判断し、レッスンで生徒本人とも話しました。

 

「ね、なんか負けん気でピアノやってる、って聞いたんだけど、それってちょっと寂しくない?」「ん?」「ま、それはいいけど、で、将来の夢はな〜ぁに?」「小学校の先生とかになって、トランペットとか教えて、吹奏楽の顧問になりたいの。」「いいじゃない!・・・そしたらさ、ちいさい子供たちにいろんな楽器を教えるの。その子どもたちはさ、音楽大好きでたまらない子たちばっかりね。」「うん。」「その子たちがさ、負けん気で音楽やってるとしたら、どう?」「ん?」「へんじゃない?」「うん。」 「あなたはピアノ大好きでやってるんだよね。それはすぐわかるのよ。あの音出して楽しい、ってレベルじゃない、ってことがね。それでさ、ピアノの曲ってのは何千曲、何万曲ってあるのよね。」「うん。」「これからもっともっと素敵な曲にめぐりあって、練習して弾けるようになってゆくんだよね。それで上達したら何十人、何百人というひとたちを楽しませることができるんだ、たくさんのひとたちに素敵な音楽を届けられるの。」「ん。」「音楽ってそういう大きくって広いものなの。」「ん。」「だからさ、そんな素敵な音楽やってるのに、その負けん気なんてちっぽけなもの、どうでもよくない?」「ん。」「そんなことちょっと忘れて脇に置いてサ、素敵な音楽を前にしてそんなことに関わってるヒマってないじゃない!」「うん。」「じゃ、これ弾いてみよぅ。」とピアノに戻ったところに、お母さまがお迎えに来ました。

 

この日の彼女の晴れやかな満面の笑顔は、流石に嬉しかったです。

あれ?!こんなに可愛い子だったの〜、って。(^・^)-☆

お父さんやお母さんの前で褒め言葉かけてあげても、いつも何だかふくれっ面だった彼女。そんな彼女から笑顔を引き出すことができて、この生徒のピアノは明らかにこれから開かれてゆくと思います。クリアNo.6! 

 

ほっとして休日だ。^/^ 

 

一年の計が・・・。

投稿日:2012-02-05

節分も明けて、やっと今年初めてのブログです。

皆さま、お元気でお過ごしでしょうか。

 

先日は名古屋もかなりの積雪で、慣れない雪かきもたいへんでした。

雪が積もると音が吸引されて、とても静かな音の世界になりますね。

読書に向く時間です。

 

さてこのひと月悠長にどう過ごしていたかと言いますと、年末から1週間ほどのお休みはあったものの、三が日明けにコンクール全国大会に参加した生徒たちが複数いたので連絡も気になったし、アジア大会まで進んだ生徒もいて何だかすこしせわしさもあったかな。・・・?それと何より、昨年自分のピアノも上向きのうえレッスンの成果もあがってきた訳だけれど、今年はどういう観点に目を向けて変革していったらよいだろうか、と思いを馳せながらいろいろな本を読み、考察していたもの。

 

 

何冊か読んだ本はいずれも演奏家たち、といっても指揮者、邦楽家、作曲家等が書いているものでピアノ稼業のものはないですが、音響学的な観点からのもの、音楽史的な観点からのもの、日本人と西洋人の身体性また遺伝子的な相違点からの考察。・・・それらをピアノ演奏の観点に置き換えて考察し、日頃からクエスション・マーク的に思っていたいろいろな課題についてthink againの毎日。

 

日頃から思うことって、・・・。

リズム、テンポに対する曖昧さ、レガート感覚の曖昧さ、2声部の聴き分けに対する鈍感さ、左右の手が創るバランス感覚の鈍さ、スラーの無視 etc.

もちろん自分も同じ経過をたどってきたと思う(でも私は一から十まで弾いて教えて頂いたことなんてほとんどない)けれど、どうしてこうも一から十まで弾いて聴かせ、教えなきゃわからないのだろう?と言うより、どうして弾いて聴かせると、こんなにも変わるのだろう?

なのに1週間経つとどうしていとも簡単に戻ってしまうのか、また戻らないケースはどう違うのか。

 

 

そうしてひと月くらいのあいだにまとまった考えがふたつ、みっつ。

これらはとても根本的なことで、ほぼ確実に変革を迫られる。

 

何度も伝え切らないなぁ、と思ってきたことだが、思考観点の提案力とでもいうか、それを何冊かの読書を通して与えられた結果だ。

 

 

例をあげれば単純な話、たとえばソナチネのようなクラシックスタイルの曲で、左手のアルベルティバスの伴奏などをもう少しちいさく、といった注意はごく日常茶飯事。

どうしてそれが容易にできないのか。

またいったいどうしたらすんなりとそれが出来るようになるのか。

 

それは日本人が農耕民族だったことまで話がさかのぼる。

北方の狩猟民族には、狩りのために動物の声とそれ以外の音を同時に聴く必然性があった。

また寒さを逃れるための石造りの住居は残響が豊かで、長く響く音を聴く習慣となったらしい。

 

一方日本人は、植物が繁茂した土壌に住み、屋内では畳、障子などが音を吸収する残響の少ない空間に暮らし、大事な音以外を雑音として片づける習慣がついた。

 

おかげで2声部のバランスを同時に聴くことが習慣的でなく苦手だし、休符を平気でイグノアしたり、・・・。現在フローリングの家屋になり、畳の部屋がない家もめずらしくない時代になりはしたけれど、この聴覚に関するDNAはそう簡単に消し去る訳にはいかない。

 

そう、やっぱりクラシックは西洋人向けのもの?日本人には到底むずかしい?!

 

けれど一方で日本語は子音が多く、倍音の豊かな言語。

西洋の石造りの家屋や都市構造では、音が反射するたびに高次の倍音から吸収され、基音が増幅するのに対し、日本のような家屋構造では、倍音がよく聞こえる環境になるのだそうだ。

先に「大事な音以外を雑音」と認識する、と書いたが、騒音のなかでもピンポイントで聴きとりたい音にフォーカスできる才覚には優れているらしい。

 

ではどうすればよいか。

 

他のクエスション・マークにも、一休さん的逆転思考でもってご名答!

 

拍感に関すること、技法上いまひとつ伝え切らなかったこと、練習する割にどうしていつまでも表現になってこないのか、とギクシャクした思いに駆られてきたことについての事柄と、具体的解決法。・・・

日本人の特質を使って解決できるものもあり、特質ゆえに徹底的に訓練してゆく必要があるもの在り。

 

 

結果何が変わったかは、今レッスンを受けている生徒たちがいちばんよくわかるだろう。

(ひとつの指示の背後にこんなにたくさんの考察の経過があると知ってびっくりかもしれないけれど。)

とくに上級生徒たちには即効力を持って伝わる者もいるが、これら根本的なことは初心者たちのレッスンから確実に伝えてゆくべきことなのだとじつに思う。

 

クラシック音楽は横に流れるエネルギーを確実に把握する以外、道はない。

そういう歴史を踏んだ音楽なのだから。

 

「ドミソ、シファソ、ド・ミ・ソー♪」という和声構造も、こうした縦の系列は理論としてはあっても演奏の実践上は横の系列で捉える事ができなければ「何かがおかしい。」ということになり、本物の音楽にはなり得ない。

 

一つ一つの音がどこへ向かいどこに吸引されるのか、音のエネルギーがあり、拍のエネルギーがあり、リズムのエネルギー、アーティキュレーションによるエネルギー変換、そのすべてを読みとり、自らの耳で丹念に聴きとる必要がある。

初期の段階から素直に学べば、それはたいしてむずかしいことではない。

いずれすべての生徒たちに還元があるだろう。

 

やはり変革には視坐の転回あるのみ。

 

 

さて「一年の計は元旦にあり」のところ「一年の計が1月にあり」と相成りましたが、さぁ、今年もがんばります。

初詣のおみくじは、大吉!この地元の神社で引くおみくじはいつも当たるので、気もちを引き締めて精進したいと思います。

 

皆さま、本年もどうぞよろしくお願い致します。

 

 

*レッスン初めの前日に日帰りで出かけた、冬の京都のスナップを。

                  (無鄰庵から青蓮院へ

 (長楽館・洋館)

(二寧坂手前にある八坂の塔がお庭から見える

日本画家・東山艸堂の私邸・The Garden Oriental Kyotoでのランチ)

 

               (三年坂界隈にて)

 

 

       (嗚呼、祇園佐川急便なり!)

 

        (八坂の塔、祇園西花見小路)

 

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