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ピアノ教室コンセール・イグレック♪


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Merry X'mas !&門下生コンサート

投稿日:2012-12-25

 先の日曜日、門下生コンサートが無事終わりました。

今回は1年半ぶりの生徒発表会。

社会人生徒や上級生徒の充実ぶりがみられ、とても嬉しい会でした。

とくに12月に入ってからの仕上げの純度に、磨きがかかりました。

 

当日は、11時開演から16:30終演のたっぷりの演奏で、文化小劇場側には急きょ延長手続き発生(!)で、お世話になりました。(*^^)v

3部構成で各部のオープニングに連弾が入り、幼稚園児のソロから始まり、各部の終盤はそれぞれに充実したプログラム仕立て。

3部に至っては聴きに来てくれた友人のピアノの先生に言わせると「ふつうの発表会ならトリを務めるひとたちの集合体」だったとか。 (@_@;)

とても聴きごたえがあった、と喜んでいただきました。

 

12月に入って体調ダウンしましたが、先生からのプレゼント演奏も何とか無事終わり、ほっとしています。

 

 

 

       

 

皆が音楽のこころを大切にして、ピアノの上達に情熱をもった生徒同士が協調しあう、ゆとりのもてる門下生を育ててゆきたいと思っています。 

皆さん、メリー・クリスマス! 来年も素敵な一年でありますように! 

 

(ピエール・マルコリーニのX'masチョコ、お気に入りのNespressoコーヒーと。)                 

 

                                               (皆、とってもいい笑顔でした〜!)                                                                                                          

  

スコダの芸術

投稿日:2012-11-20

土曜日の夕方、パウル・バドゥラ=スコダのピアノリサイタルに出かけた。

(11/17豊田市コンサートホール)

Mozart、Haydn、Schubertと、なかでもBeethovenが素晴らしかった。

 

 

この年代の演奏家の音の深みは言うまでもないが、その演奏の源となる拍のエネルギーに聴き入っていた。

清流のごとく迸る、脈々とした音楽のビートの渦を感じていた。

拍の持つ前進力。・・・とてもexciteであり、且つ高雅な香りにつつまれている。

 

 

プログラム最後の「熱情」ソナタは、これまで聴いてきた現代演奏の通念に比すれば、およそベートーヴェンらしからぬ、否それでいてこれこそが真のベートーヴェン像なのだ、と思われるほど、深淵で、崇高で、魂の宿った躍動感と情熱を伝え得るものだったのである。

 

ちょっと、これほどの感銘の経験はない。

 

 

 

1927年生まれのスコダ、今年で85歳になる。

この日は、というのかわからないけれども、流石に右の手は思うようにならないこともあるようで、右手の細かなミスタッチはかなりの頻度であった。

(いっしょに出かけた友人などはまったく気づかなかったようだし、誰しもが、そんなミスなど気にはならないけれど)自らに完璧を求めるならば、とうに引退していることだろう。しかしもちろん周囲の望みも強い。

現代のベーゼンドルファーのグランドピアノから、ピアノフォルテの響きを牽き出すことの出来るイマジネーション。その音だけでも、このピアニストの背景にどれだけ素晴らしい芸術的音楽経験の時間の蓄積があるかが、うかがわれる。まさに人間国宝的な存在である。

 

そして最前列にいた私には、カラヤン、フルトヴェングラーの時代からウィーンの音楽家として、この20世紀という年代を生き抜いてきたスコダにしか出来ない、今となっては変容しつつあるクラシック音楽の伝統美を現代に伝えんとする決意、気迫のようなものを、プログラムの終盤に聴いた気がするのだ。

 

ともあれ、すばらしい集中力と、渾身の音楽への献身力だった。

終演後のロビーは高揚した微笑ましい雰囲気に包まれていた。

 

何か歴史的な文化遺産に遭遇したような、そんな感動。

ギレリス、アニー・フィッシャー、ラローチャ、バルビゼ、デムス、Vlnのギトリス・・・、偉大な芸術家たちの演奏は忘れられないものだが、きょうのスコダの演奏ほど驚愕したのは、晩年のギレリス以来だった。

 

また聴ける機会が授けられたら、と願うばかりです。   

 

 

生徒OBたちからの便り

投稿日:2012-10-30

この秋は、久しぶりのコンサート観賞が続く。

 

先週の知人のソプラノ&チェンバロリサイタルに続き、この日曜は、半年前からチケットを購入していたのを思い出し、豊田市コンサートホールへ。

「ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ」、すばらしいアンサンブル。

深く、濃密で、でも厚ぼったさはなく、ことごとく協和した世界♪

シューマンのヴァイオリン協奏曲なんて、ホントの意味での「協奏」曲を初めて聴いた気がする。 

メンバーのコンバス、ビオラ、バイオリンのファースト群もすごいつわもの揃いで、クレーメルとファースト・ビオラなんて、ピッチャーとキャッチャーみたい。パーカスもすっごくやわらかな響きを呈していて。・・・

実にいいコンサートを聴いた。前から5番目の席でうっとり、スマイル〜。(^^♪ 

 

この後、来月はしらかわホールで「カメラータ・ザルツブルグ」のモーツァルト・プログラムとスコダとチッコリーニのピアノリサイタルほか、知人のリサイタルと続く。

 

 

さて、このところの出来事を少しまとめて。

 

2週間くらい前の休みの日に、久々ショパンワルツを引っぱり出して弾いていた。第1番の「華麗なる大円舞曲」を弾きながら、この曲を邦楽の口伝えみたいに教えた生徒のことを思い出していた。曲をグループに分け、そのフレーズを片手ずつ弾き、解説を加え、音を伝えて、それをレッスンに来ては一言一句覚え、マスターし、彼女は半年以上かけてその曲をものにした。大学受験期に入る前のラストとしてこの曲をやりたい、と言っていたもの。・・・そんなおっとりゆったりのレッスンをやってたんだなぁ、としのんでいた。

その日の夜だった。夕食後に近くの薬局に買い物に行くと、レジで声がする。「先生、黒田先生〜。」・・・はっと顔を見上げると、びっくり!

その彼女ではないか。(^^♪

「うわぁっ、元気?どこの大学生になったの?」と聞くと「南山大学です。・・・スペイン語やってます。」ってほんと笑顔の可愛いお嬢さんのお年頃になった。

思わず、微笑ましいひととき。

 

 

それから程なく、京都の同志社大学に進学した生徒からの返信メール。

このところ師走にコンサートが続いた私だが、今年はのんびりと一年を過ごしているのでこれまでのずっとやりたかったことの一つでこの秋京都へ出かけるのだが、これが最大、そうシチリアへ行くより楽しみにしているのだ。友人に話すと「え?京都は逃げていかないでしょう。いつだって近いし。」と言われたが、紅葉の見ごろは1週間。この時期に行けるというタイミングがなかなかなかったので、すっごい楽しみなのだ。「他人の芝生はよく見える」ではないけど、ひとの望みというのはいろいろあって、なかなかわかってはもらえないけど。(+o+)〜 

そこで京都の彼女に、紅葉狩りの穴場を聞いたもの。・・・

この生徒はずっと受験直前までピアノを両立させて、大学1年の夏にはピティナのグランミューズ部門で予選通過したほど。そんな風にいつもピアノとともにあった彼女も、下宿生活でいっときピアノを離れている。就職先が決まったけれど、さまざま悩んだ末、大学院進学を決めた、とか。また来春から彼女のピアノを聴けるようで、嬉しい。

 

東京藝大の芸術学科に進んだ生徒は古美術研究会で活躍している様子、FBで活発そうな書込みを目にするし、こうした生徒OBたちの便りは、こころ和む。

 

 

そうこうしていたら、何とも懐かしい生徒からメールが届いた。

幼稚園時のピアノの手ほどきからソナタが弾けるくらいになるまで見てきた生徒なのだが、ある事情で私のもとを離れたもののピアノが大好きなので再開している、ということは聞いていた。

たいへん才能ある生徒だったので、小3の時に恩師の小林 仁氏のところへ連れて行ったこともある。その彼が、名古屋でおこなわれるコンクールでは一番伝統あるピアノコンクールの中学生部門で2位になり、受賞者コンサートに出ることになった、とのこと。

私はこの生徒に「小学生のうちにこのコンクールに出られる(=もちろん上位に入るほどの実力をつけるという意味)といいね。」と言ったのを覚えているから、彼の天分からすればちょっと遅いくらいか。・・・こんな朗報が入るとはまったく嬉しいこと。もちろんそのコンサートの日程、今からメモ帳に入れている。(^^♪

 

 

さてコンクールと言えば、最近え〜?っと考えさせられることがあった。

 

知人であるピアノの先生から聞いた話だと、あるピアノ教室では「コンクール出場が礼儀で、全国大会に出ることが先生へのお礼。」と言われているそうナ。 

ひとから直接聞く意見に間違いはないが、人づてに聞く話というのは、その使われる言葉や言い回しによって話した人の主観が入るもの。

ひょっとしたらこの話も、例えば、一人の生徒がコンクールでお世話になった後に先生に金品たずさえてお礼に伺ったら「全国に進んだことが嬉しいし、それが私にとっては最高のお礼だから、こうしたお心遣いは結構よ。」と言われたことなのかもしれない。

 

誤解されないようにつけ加えれば、我々指導者は生徒をコンクールに出したからと言って参加受験料の一部をもらうということは一切ないし、コンクールやオーディション関連は裏方事務などいろんなボランティアの方々の協力によって成り立っていて、審査員の仕事でさえ時間からみても労力からみても本当にたいへんな仕事、でもそしたらどうしてそんなたいへんな仕事を受けるかと問われれば、こうした音楽活動を継続している会への感謝、音楽教育界への、延いては音楽そのものへの貢献の思いからだ、と私は恩師や先達の諸先生方の姿をみていて思う。

演奏活動や創作活動も、ひろく、音楽やに捧げる、といった志がなければ成り立つものではない。

 

 

でも、あぁ、これか、と思った。

最近のコンクール事情にあって、とても健やかにコンクールチャレンジしている層と、何やら「勝てくるぞと勇ましく」精神さながらの層を垣間見る。

  

私の教室でちっちゃい時期からみている生徒たちは押し並べて自由闊達で、コンクールエントリーも成長のバロメータのひとつとして参加しているところがあって、そりゃみんな、こどもっぽく「賞がほしい〜!」って気もちがあったり、予選通過の栄誉?に授かりたいみたいなところはあるけれど、指導していて結果の予測はほとんど的中する私(^^)/にとっては、生徒たちがどんな結果を持ち帰ろうとも基本、気にならない。

生徒たちはみな賞が嬉しいみたいだから、受賞すればそれは「おめでとう!」なんだけれど、私にとってはそんな結果よりもコンクール受験を通して生徒たちひとりひとりが実力をつけてきていることが「おめでとう!」だし、(コンクールが終わった直後にも)いつでもその一歩先の生徒たちの充足してゆくべき点や方向性についていろいろなvisionを廻らせているので、一々気にかけているいとまがない、といったほうが適切か。

 

学生の頃、恩師の小林 仁氏は何かの講義か著作のご本でだったかで、「結果はあとからついてくるものだ。」と明言なさった。この言葉は私の脳裏に焼きついて離れないが、片やコンクール結果のために、全国出場権をとってくるゾ!のため?に練習する、というのでは本末転倒。 

 

でも今の世の中、先に書いたような事を言われる教室が意外にも結構あって、物事の順序が逆転した中で音楽に取組もうとする純粋なこころまでが変貌するような状況がもしあるのだとしたら、私もこれまでのように気軽にコンクール受賞者の生徒たちのことなどをブログに書いたりなんかしていると、そんな生徒たちのことで小躍りでもしてると思われちゃとんでもないっ。気をつけなくては。(+o+)〜

 

 

 

さてこの春、アメリカに渡った社会人生徒のことを。

ちょうどピアノレッスンが軌道に乗りかかった頃だったが、さらなる勉強と医学研究のために、とご主人(もお医者さま)の渡米について、今コロラドにいる。

相変わらず超多忙な毎日を元気にこなしていることだろうと思うが、先日留学中の友人宅へ遊びに行き、その際にパウエルホールというコンサートホールでセントルイス交響楽団&パスカル・ロジェ(piano)のコンサートを聴いてきた、とのこと

ロジェ氏は私がニース時代に幾度もレッスンを受けた恩師。懐かしい。

この11月には日本にも来る、国際的ピアニスト。 

当日はラヴェルのピアノコンチェルトト長調のほかドビュッシー「ラ・メール」の曲目紹介で、葛飾北斎の海の波の絵(The Wave)にインスピレーションを感じて作ったのだと紹介され、日本の事を耳にして嬉しかった、と言う。

アメリカという異国の地にあって日本を思う。・・・そんな彼女を想った。

 

「滞在中にニューヨークのカーネギーホールやシカゴなどにコンサートを聴きに行ってみたいと思います。一時帰国でピアノをゆっくり触れるのを楽しみにしています。」と結ばれていた。

また数年先に彼女の音楽が大きくなっているのが、楽しみ。

 

こうしたメールは、こころ和むひととき。

 

 

さて、このところピアノレッスンの現場は、門下生コンサート(千種文化小劇場)のための曲の仕上げに向かって、健やかでエネルギッシュな雰囲気だ。

これからはコンクールとの在り方にも配慮してゆきたいと思っている。

もちろんコンクールなど受けたくない、という生徒はいいと思うし、コンクールで実績の出ている生徒は年に2回、3回とチャレンジするのももちろんいい。

でも以前のブログでも言ったように「コンクールには使われるな。コンクールは使い切れ!」が私の教える際のモットー。

 

生徒たちがコンクール結果に左右されるようなつまらない思いはさせたくない。

 

演奏はメンタル面での充実ぶりが反映される世界。

音楽に嘘はつけない。

「楽曲を深く学ぶことで物事の客観性を学び、演奏することで我を知り、ひととして成長するのだ。」と、これまでの自分の音楽活動を通して、そう思う。

だからこそ自分の知識と経験を、惜しみなく教えているし、教室生徒たちには健気なこころをもって、これからも大いに健やかに育っていってもらいたいナ。

そう希っている。

 

 

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