レッスン楽器


上部フレーム

ピアノ教室コンセール・イグレック♪


ブログ

音楽のちから

投稿日:2014-07-22

東海地方、梅雨明けでしょうか。

夏休みに入ったというのに梅雨が明けていないので、季節感がずれますね。でもこれで、やっと夏らしくなります。


このところ、いろんな演奏会に遭遇しました。

5月下旬にポーランド室内管弦楽団とのヴェンゲーロフの素晴らしく芸術的なヴァイオリンコンサート(28日愛知芸文センターコンサートホール)、6月に入って12日にパウル・スコダ(宗次ホール)、15日には88歳のアルド・チッコリーニのピアノリサイタルでは奥深い音楽観を堪能し(豊田市コンサートホール)、7月9日にはファン・カルロス・ロドリゲス(ザ・コンサート・ホール)、12日には明和高校音楽科サマーコンサート(しらかわホール)、翌13日には中日ピアノグレードテスト岐阜審査(じゅうろくプラザホール)と続き、この日には102名の参加者のピアノを聴きました。

こんな風に天才格の演奏家たちや80歳を超えて尚変貌昇華するVirtuoso、感性豊かでフレッシュな演奏の数々や感性優先の瑞々しい演奏に立ちあうと、ピアノ演奏って何だろう、と思います。

 

クラシック音楽はひとつの語学のよう、と私は以前から思っています。

クラシックピアノの作品のなかでも作曲家独特の語法があり、バッハ語、ショパン語、ドビュッシー語etc.ってあるわけですが。・・・

 

片や、2か月ほど前に高校同期の友人がアドバイスをくれて、テレビで毎日英会話番組を観るようになりました。毎日、と言っても週4日にすぎませんが、10分間見ているだけでも語学感覚というのは芽生えて来るようです。新しいパソコンでは海外ニュースのVideo版で、フランス、イギリス、カナダ、ドイツをはじめ、いろいろな国の動画ニュースを観ることが出来、専らフランスのか、カナダの英語版を聴いていますが、面白いことに、英語とフランス語、どっちもわからないのは同じくらいですが、フランス語のほうが疲れないし、聴いていて楽しいんです。というか、フランス語のほうがすっと耳が引っついていく、という感じ。(耳が行ったところで分からないことには、大してかわらないのですけどね。)でも明らかにフランス語の音に慣れているし、脳はそこへfitするって感じです。

疑問に思うのは、英語はフランス語より単語も知っているはずだし知識としては上をいっていると思うのだけど、耳自体は(フランス語より)拒否反応、というか、しばらくするともう聴いていない自分がいて笑ってしまいます。

フランスでのレッスン時も、先生にはフランス語で話していただいたほうがよく理解できて、自分で質問する際は英語で、という感じで困ったものでした。だってこちらが英語で話しかければ、そこはもうヨーロッパ流儀で当然のように英語で返そうとなさる訳ですが、そりゃ先生方はフランス語のほうが滑舌になるから英語では言葉少なになってレッスンもつまらなくなる訳で。・・・

まぁ、そんなことはどうでもよいのですが、言葉って何だろう?と思います。

 

こどもにとっての耳に入ってくる言葉って、発言者のさまざまな思い、楽しさ、悲しさ、辛さ、喜び、困惑、切なさ、口惜しさ、怖れ、ときめき、羨望、嫉妬、弁解、希望、期待、励まし、共感、反発、なぐさめ、怒り、号泣、安堵、落ちつき、優しさ・・・などと、人間世界のあらゆる状況説明だったり、といったところでしょうか。

私が海外ニュースを聞いていても、そういった人間共通の感情と、ひと対人間界的な共通認識の概念は伝わってくる訳です。


音楽もそこが一番大切なところで、私たちが言葉を聞くのに「あいうえお」や「ABC」の成り立ちを聞いているわけではなく、その言葉が持つ表情を聞いているのと同じく、曲の音そのものがどんな表情を持ち、雰囲気を表わし、感情を伝えているのかを読み取り、感じることのほうが大切だと思うのです。

メロディのなかに、リズムが持つ力のなかに、そしてとりわけピアノの場合はとくに和声のなかにも、どんな表情を示しているのかを深く考察し、読み取り、聴き手に伝えなくてはいけません。

ピアノを習いたての子どもたちの曲にさえ、音を間違えなく弾ければいいのではなく、音の方向が表現している状況や、リズムが表わす状況などをいかに感じているかのほうがはるかに大切だし、ましてや音の多い上級者の曲ともなれば、どんなに速い音価になっても拍のなかにその音群をとらえる力も要るし、その細かな音群の音程を聴きとるソルフェージュ能力も要るし、もちろんどんな音価の音群も綺麗な音で奏でる身体能力(テクニック)も要る。しかしその先に必要なのは、いかに状況を表せているか、いかに作曲者の思いを語っているか、ということに他ありません。

 

私は、演奏はおしゃべりと同じだ、と思っています。

だからこの文のはじめに書いたようにいろんな人たちのいろんなピアノを聴くと、どれだけ自分の言葉として喋っているのか、ということを強く思います。

 

会話力は習得時間数に比例するのでしょう。英語を学んだ年数は中学生からだからフランス語より長いのに、生の語学を実生活のなかで聴いた時間数はフランス滞在経験を考えると英語学習時間数に比べてはるかに長いのですね。だから慣れているし、その感覚にfitしやすいんですね。音楽についても、バッハの作品をどれだけ聴いたか、ショパンの作品をどれだけ聴いた時間があるか、それもいい発音(演奏)で聴いたことがあるかが要であり、そのひとのストックとなって出てくることは十分考えられます。

 

またクラシックの曲は何十年、何百年という単位の時間経過のなかで生き残ってきた音楽ですから、芸術的なものばかりです。偉大な曲のなかにどれだけの深くのものを読み取り、感じとれるかは、奏者本人のさまざまな音楽的含蓄であったり、文学的備蓄であったり、美術的なセンスであったり、といった所謂教養、ひととしてのコスモロジーといったことに深く関わってくるものです。

だからこそクラシックピアノは一生深めてゆくことが出来るものですし、私が生徒たちのピアノについても見守っていることはピアノの技能だけではないのです。時には、私よりひと回り半以上も年配の生徒さんに対してさえも、(ピアノを学ぶうえでの)ひととしての在りかたや心構えまで教え諭すことがあります。

 

以前TVで、ある大物女優さんが女優というものについて「昔の女優は教養があったのよ。女優って<女が優れる>と書くのよね。今のは女優さんと言えるの?表面綺麗な人は多いけど。」と言っていたのを思い出します。


ところで私の大好きなCDは、恩師ピエール・バルビゼの演奏と「GREAT PIANISTS of THE 20th CENTURY」シリーズのサンブルCDです。これは100人のアーティストの紹介を兼ねたCDで、2枚のCDには各ピアニストの3分ほどの演奏曲が入っていて、その曲目も今ではあまり演奏されないものも多く、聴いていて飽きません。

それぞれ使用しているピアノも、録音場所も違うのに、通して聴いているとひとりの演奏家のCDを聴いているのと錯覚してしまうから不思議です。20世紀に活躍した音楽家たち、皆ほんとうに素晴らしい表現力で、豊かな教養を感じます。

こうした深みのある演奏では、作曲家の曲へ情熱を通し、演奏者のこころの声を聴く思いです。  


    

夏の横浜

投稿日:2013-12-16

随分冷え込むようになりました。

ちょっと今では懐かしいような、あの夏の日差しがきつかったこの8月。

とても久しぶりに横浜へ行きました。

 

日本ピアノ教育連盟のセミナーの1枚のチラシが目に留まっていました。

タイトルは「スペシャリストのピアノ初期指導法」というもの。

今年は時間にゆとりのある一年になりそうでしたので、春からピアノの講座にいくつも出かけました。

上級者レッスンは問題ないとして、初級者のレベルで大切な基本的下地を如何に小難しい印象なく伝えられるか、というのが私のここ数年の意識の中でありました。

今の子どもたちは情報量が多く、どうしても楽譜を丹念に読む、というセンスにかける気がします。それは読書でも同じじゃないかしら。

耳コピが出来るのもひとつの才覚かもしれないけれど、自分で楽譜を読みとけなければ、次第にソナチネ、ソナタと進んだ頃には「楽譜が読めません。」と言い、付き添うお母さまも「私にもわかりませんから。」と切ない顔で言われて終わってしまう。

こういう方たちは、子どもたちがとにかく音を覚えて暗譜で間違いなく弾ければOK、と思って喜んでいるから、教えているほうの私=先生も本人が読めて弾けているものと騙されて(?)、先のような「時」が来るのだ!

とくに中途で教室を替わってくる方たちにはこういうケース、多いです。

そうさせないため、そうならないためにはどういう構えが必要なのか。

いろんな講座にも出かけ、まぁ実にいろんな先生方がいろんなアイディアをお持ちですが、何かここ一発!というのはないのかなぁ?

思いあぐねていたころに目に留まったものでした。でも、・・・。

 

日時:8月23日 希望者によるレッスンクリニック 10:00

        講座 13:30〜18:00 

        会場:洗足学園音楽大学

そう、東京なのです。

 

でも夏休みのことですし、旅行も兼ねて出かけてみますか、ってことで行ってきました。

かなり前ですが、講習後連盟から頼まれて書いた感想レポートがありますので、紹介します。

 

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私が名古屋から駆けつけた日本ピアノ教育連盟のセミナー「スペシャリストのピアノ初期指導法」。午後に2つの講座、午前中には個別レッスン方式でピアノ指導者のための「レッスン・クリニック」が行われ、折角上京するのだから受けてみようと申込みをしてみました。

思えば音大生時代から始めたピアノ指導の仕事、もう30年が経ちます。音大卒業後フランス国際アカデミーでのレッスン受講を重ね、コルトー・メソッドのテクニックを研究、習得しました。テクニックの分析、解説はもとより、楽譜アナリーゼ、小節割りから曲のグルーブ感を読みとるなど楽譜の深読みをスタディ・アゲインし、今では幼児導入から音大生など上級者レッスンまで教えることについて根幹的に困るということは何もないという毎日です。2年ほど前から中日ピアノグレードテスト(名古屋、岐阜、高山、東京で毎年実施)の審査もさせて頂くようになり、毎回たくさんの演奏を聴き講評を書くにつれ、適宜な判断と助言を導き出す力もアップしてきました。

けれどもレッスンに来た生徒たちにすこしでもさらに上手くなるアドバイスを、と思う気もちが先行し、レッスン時間ギリギリまでピアノに集中し、レッスン室の空気もキツキツの感じです。高校、大学生や社会人たちには問題ないですが、小中学生を相手に少しは軽いジョークや言葉がけでゆったりした雰囲気を作れはしないだろうか。しかも、たいした時間を取らずに。

そう、まさに「自分を変えたい!」という思いでいたところに「〜貴方のレッスンが変わる!名教師のコツでレヴェル・アップを!〜」というチラシの副題が、私の目に留まったのでした。


新横浜から東急バスで向かった洗足学園音楽大学。

レッスン・クリニックの曲目「バッハ:インベンション第6番」は事前に知らされていましたが、私は楽譜には目を通したもののこの日のためにとくべつに勉強をすることはやめ、普段着で接しようと思いました。何か下ごしらえしてしまうと相手がどのような演奏をしてもそれを押しつけかねないと思ったからです。自宅の教室でも体験レッスンでやってくる生徒さんは様々なレベルで、まったく初めて会う生徒さんでも当人の弾くピアノの音と表現を通して音楽上のコミュニケーションをとることに苦労はしません。この日連盟がお手配して下さった生徒さんもよく出来ているようでしたので、楽典的な解説にもどんどんと反応をみせ、レッスンが終わる頃には音楽的骨格がみえる素敵な演奏に変わっていました。担当して頂きました辻井雅子先生には「すてきになりましたね。」「ゼクエンツという言葉をきょうのレッスンで初めて覚えたこと、一生忘れませんね!」などレッスン進行の糸口になる前向きの言葉を挿みこんでいただき、タイミングよく生徒を褒め、活性化することを学びました。レッスン後半では、私がこの曲をE-durの音階の成り立ちからカデンツ、転調、和声進行などに及ぶお話を伝えようとしているのをみてとり、「ホ長調の音階、弾けるかしら?」など俊敏に誘導して下さいました。こうした大いなるリーダーシップに満ちた言葉がけを、自ら行なってゆく必要を感じました。

 

午後からのクラウディオ・ソアレス先生のレッスン・ビデオを使った講義は、私にとってたいへん有効なものでした。

ピアノレッスンといってもさまざまな側面があり、楽典的知識、聴き取る耳、倍音の認識から音量バランス、イントネーションから本当のリズム感、調性、和声進行、音質、タッチ、拍節、フレーズ、抑揚、呼吸・・・と、そこはソアレス先生がセミナーで開示してくださった項目すべてが私の思うところであり、共感できました。ソアレス先生は生徒たちに「上手だね〜。」「あ、上手いね!」「賢いねぇ。」というたくさんの言葉がけ。それらはタイミングが合っていないと宙に浮いてしまいますし、何より先生が1週間なりをかけて生徒たちが一生懸命練習してきたことを、心の耳で聴き、確認し、喜びを共にする。その姿勢にはネガティブな発想がありません。たとえ方向性がぴたりと合っていなかったとしても、まず生徒なりに努力してきた事を受け入れ、解説し、だから「こうでなければね!」という冷静で前向きな雰囲気を作ることが出来ます。

また小学3〜4年生から楽典の成り立ちを根気よく話し、伝え、楽譜をアナリーゼすることを毅然とした態度で、且つゆったりと時間をかけて教えていらっしゃるソアレス先生の姿に感動を覚えました。私はこうした音楽上の科学的アプローチは西洋音楽をやる上で必須のことと考えてはいるのですが、日本人は音楽を感覚的、表層的イマジネーションでとらえるところがあり、楽譜の具体的側面を分析して理解しようとするには一定の努力が必要です。こうした西洋人との差異を思うと、まだピアノを習い始めて数年といった初心者のこどもたちにこうしたことを滔々と解説することは妥当なのだろうかという懸念が、私にはありました。しかしソアレス先生の「こうしたアプローチは当然のことなのだ。」という泰然とした構えに、今後私もそれがいかに大変なことと知りつつも、ゆったりと構えて継続し、遂行してゆこうと、思いを新たにすることができました。

 

セミナー後の私が変わったことは言うまでもありません。

「心の耳で聴く」という姿勢が私自身にゆとりをもたらし、仮に生徒が間違った自分勝手な練習をしてきても単にそのことを叱ったり、咎めたりという雰囲気になることなく、結局は生徒自身に振り返ってくるのだということを示唆できるようになりました。また「こういうアプローチをすればもっとよくなるよね。」と方向性を適宜にまとめ、「次回はこういった点を深めてゆこう。」と次への展望を示唆することで生徒はこころから安心し、期待のこもった顔つきをみせるようになりました。

先日よく練習をしてきた上級者レッスンでこんなことがありました。ショパンエチュード「黒鍵」のレッスンです。速いパッセージの連続の曲ですが、フレーズ間のほんのわずかな間合い、呼吸感の話をしていた時です。弾いてみせたり、いろいろと説明するのですが、なかなか反応しません。以前なら気難しい顔を見せていたところでしょう。しかし「先生は今あなたにどう説明したらわかるかしらと手探りしながら話しているの。」と言いながら手を替え、品を替え話をしている自分がいました。こう言われれば生徒も一生懸命フォーカスしてきます。レッスンを終えてお庭に出たところで、こちらに微笑みかけている生徒の姿がありました。私はその時の生徒の顔を忘れることはないでしょう。とても安心した、信頼感のこもった眼差しがそこにはありました。

 

ピアノという深淵な楽器、長い歴史をもつ西洋音楽という重厚な文化を伝えるには一生をかけても語り尽くせない奥義があり、楽曲を含めた音楽の勉強はレスナーそれぞれが責任を持って続けてゆくことになりますが、日頃のピアノレスナーは独りよがりになりがちな側面もありましょうし、ひとたび壁にぶち当たった時はなかなか解決の糸口を見つけられないまま、毎日のレッスンに追われることもあるでしょう。こうした指導法についてのセミナーやレッスン・クリニックは、時に応じて熱意あるレスナーにとって「有効な窓になる」という印象をもちました。 (2013.8.30記)                                                                                                                                                                                    


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

この「心の耳で聞く」という構えは、自分のなかの頑なな部分を解きほぐしてくれたような気がします。

それまではこう弾くべき、という頭から、生徒たちがどのようにアプローチしているかを察知したうえで牽引してゆくような姿勢に変わりました。

まぁ、私たちの時代には先述のような先生が大方でしたので私自身は厳しさには慣れていますが、今の時代は同じようにはいきません。

 

この夏以降、教室の生徒たちはのびやかに成長したと思います。

来週の門下生コンサート、十二分に努力し、表現力豊かに上達した生徒たちの演奏が聴けるのが、心から楽しみです。

 

 

 

「外交官の家」など洋館街をてくてく歩きました。

 

 

大学1年の時に初めて出かけた「中華街」。懐かしぃ!

 美味しかった謝甜記貮号店のランチ!

   

 港には「飛鳥」が停泊していました。

 

  横浜在住の友人とbillsのパンケーキ。超美味!

映画「春興鏡獅子」を観て

投稿日:2013-12-01

きょう「春興鏡獅子」という勘三郎のドキュメンタリー映画を観に行った。

祖父・菊五郎から受け継いだこの古典歌舞伎の「(旧)歌舞伎座さよなら公演」の舞台を見る。

勘三郎のインタビューが挿まれ、「20歳でこの演目を初めて演じた時は教えられたとおりに精一杯の思いで演じ、及第点をいただいたが、その後無欲というかまっさらな思いで演じることが難しくなり、やはりここで可愛らしく、とかいろんなことが頭をよぎり、演じられなくなってしまった。頭が入るといけないんです。」というような話があった

 

実に演奏と同じだと思った。

いい演奏ができても、同じようにやろうとすることは邪道だ。

こないだ練習でうまくいったから同じようにとか、こないだのコンクールでは上手く弾けたからあの通りに、などと思っていると、音楽は空回りを始める。ここが自我との闘い、業との闘い、かな?

頭でなく、こころで向かうべき。勘三郎は「腹から出てこなきゃ」みたいな言葉を使っていたような気がする。

 

「鏡獅子」の初舞台から何十年も時を経た円熟期の勘三郎の舞を、フィルムは映し出す。 前半最後の獅子の精が乗り移り、暴れ狂うたった数十秒のクライマックスへ向けての集中力に感無量。


 

 

その片方で私はふと大学を卒業して間もない頃のことを思い出していた。歌舞伎や邦楽の語り伝えと西洋音楽の伝承では全く違う文化の違いがある。

カリフォルニア大学に赴任された作曲家湯浅譲二先生が帰国なさった折に話す機会があり、「日本の音楽教育ではここをcresc.とかdim.とか、まったく枝葉的なことしか取り沙汰されないよね。」とシニカルに話されていたことを思い出した。

 

ちいさなこどもの曲でも「ここはこう音が動いているからだんだん大きくしよう。」とか上級になれば楽曲の成り立ち、フレーズの分析から音楽の流れを読み、「だからcresc.するわけね。あ、そう、ほら、ちゃんと書いてある!」と、ディナーミクの指示も私のレッスンではあと付けだ。

 

表現のある演奏がしたい、などと言いながら、cresc.と書いてあるからだんだん大きく、なんてことをやっていては自主性のある表現など生まれてこない。

だからこそ本当の読譜力が必要なのだ。

 

 

こないだ東京で新歌舞伎座で歌舞伎を見たときのことはまだブログに書けていないけど、そこでの感動以来、日本の美に触れている。

 

先日京都へ出かけた。

素晴らしい紅葉に恵まれたが、瑠璃光院のライトアップは歌舞伎のワンシーンのように言葉を絶する美しさ。 

 

    


    瑠璃光院ライトアップは今年最初で最後? 幽玄のひととき。

 


   源光庵 


    東山にて  


たくさんの美しさに触れ、リフレッシュのひととき。

気持ち新たに今月の「門下生コンサート」に向かいます。

 

アーカイブ

下部フレーム