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今村惇子ピアノ教室


ブログ

ユダヤ式教育

投稿日:2014-07-15

生まれてまもないあかちゃんの頃からハイハイの時期

ユダヤ人の家族は、良い子であるとき、なにかが良くできた時に

甘いシロップやジュースなどをスプーンにひとさじぺろっと

なめさせてあげるのだそう。

それが、がんばったりよくできた時のご褒美やよろこびと

記憶されて自らやろうという自発的な人間に育つらしい。

ユダヤ式教育について今回さらに2冊本を読んだ。

この2冊は主に6,7歳からの教育、勉強の仕方

親子関係のありかたについて書かれている。

自分の子育て期を省みるとこれにほぼちかい感じがする。

かといって子どもが「天才」になったわけではなく、ごくふつー

ではある。ただいつの時代も好奇心が強く自分の好みや主張が

はっきりしており、それに向かって言われなくてもがんばる子では

あった。  何々しなさい!ということはほとんどなく、

こどもがやりたいことは、危険が伴わない限りはできるだけNOを

出さなかった。親は我慢、忍耐そして待ちの姿勢をとった。

幼稚園時代の家のふすまはTomoの芸術的な?絵?模様?で

埋められていた。とにかくできるだけ自由にさせた。

それと子どもの話を面白がってしっかり聞く。これは夕飯時や

夜寝る前のお楽しみであった。

今でもよくふとんに入ってくるのだが・・

中学受験のための塾に通っていたがその算数や社会など

今の問題の解き方に私が感心するのでよく説明をしてくれた。

親も勉強につきあうのだが、教えるより教えられていたのだ。

教えてくださるのは塾の先生。教えのプロ!

CSでは本当に素晴らしい先生がいらして、その時に国語力

がうんとついたとTomoは言っている。 

しかしせっかく受験して入った学校が問題だったのだ。

我が家にとっては・・

ある方のブログで

小中高の12年の学校教育は「従順な労働者を作り上げる

目的で創設された」という情報が出回っています。とあった。

久我山中3年生のとき、主任の先生が

「わが校の卒業生は社会でますます求められ、さすが久我山だ

とおほめにあずかっている。しかしこのまま高校まですすんでは

お互い不幸になる生徒もなかにはいると思われるので、

高校進学には十分考慮していただきたい!」 とおっしゃった。

「あ”−うちだー」と思って早速また高校受験準備に

追われることとなったのである。久我山で唯一良かったのは

素晴らしい演劇部で鍛えられた演技力が今のオペラ演習で

役だっていること。そして今でも続いているその仲間たちとの交流。

それはほんとによかった・・・  

いろいろな教育論があるだろうが私は

このユダヤ式の家庭教育がまず人の根っこをしっかりと

作り上げるために必要なのではと考えています。

オススメです。

 

「与える」より「引き出す」!

ユダヤ式 「天才」教育のレシピ  

  アンドリュー・J・サター

  ユキコ・サター  ¥657

 

 

 

北風と太陽

投稿日:2014-01-14

ご存じイソップ寓話の「北風と太陽」を

やさしい英語で書かれたもので読んだ。子どもの頃どなたの翻訳かは

わからないがこれを読んだ時、ふ〜んなるほどーいろいろと違った手は

あるものだと思った。言葉は悪いが「押してだめなら引いてみな」的な・・

ところが今回のは、強さを競っており(もともと力比べではあったのだが)

太陽がほほ笑んで青年を照らしはじめると青年は気持ちよさそうににこにこ

してぶ厚いコートを脱ぎ心地よく歩いて行った。というもの。本当の強さとは?

Kindness and gentleness are stronger than anything in the world.

これを見て私はとても感激して、そうだそうだ大事なことだと、うなずいていた・・

のだが、実は違う本当の意味があったのだ。  それもちょっとこわい・・

それは

人に何かをさせたいときに有効な唯一の方法は、

本人が自らそうしたくなるようにすることである  というもの。(おとうさんのブログより)  

 

寓話とは、人々の生活に役立つ知恵を例え話で面白く語られたものなので

その教訓はひとそれぞれが感じ取ればよいのであって、違いもでてくるだろう。しかし

この本人がそうしたくなるようにというのは、一見良いことに思えるが支配者と服従者の

関係を想像させてしまう。

親子の関係でも子どもは自らすすんだ道なのか、レールにのせられたのか

わからなくなることがあると思う。親の期待にこたえたいとか・・ほめられたいとか・・

自分の心に素直になれる人になってほしいと思う。

そして親は口先だけでやかましくしつけるのではなく、子どもにしっかりとした

根っこができる環境をととのえて、あとはできるだけほうっておいてあげてほしいです。

環境を整えるということがなかなか大変、親にとって努力が必要なところだと思います。

本当は努力ではなく自然なのが一番ですけれど・・・例えばどうしても見たい番組以外は

テレビを消す。我が家はほとんどテレビは見ません。知り合いの優秀なお子さんのお宅は

テレビが最初からありませんでした。

でもときどきは良い番組もありますので、あっても悪くはないですよね。

夕食のあと親が自然といつも読書をしている、音楽を聴いている、

勉強をするなどしていれば、こどももそうすることが普通になるでしょう。

環境を整えるというのは、教材やCDを買い与えることではないと思います。親を含めた

家庭の姿勢、それが環境だと思っています。そしてこどもが、

のびやかな枝葉をつけ花が咲き、実がなるまでずっと見守ってあげてほしい。

「北風と太陽」 なかなか奥が深い・・ですよね。あたたかな太陽になれるようにしたいです。

私はそろそろ夕陽かなぁ〜

 

 

 

 

 

大人のいない国

投稿日:2013-09-17

「大人のいない国」  

    鷲田清一  内田樹 対談+著

言葉を限りなく深く深く読み解く知の巨人お二人の対談は

なるほどそう考えれば確かにーと、うなることしきりだ。いかに

自分がものごとの表層面で生きているかを気がつかせられる。

〜転載〜 

  人々がその「かけがえのなさ」に気づかず、蔑ろにしているものに

  注意を促し、その隠されていた価値を再認識させる言葉の働きを

  古い漢語では「祝」と呼ぶ。 (内田樹)

 

「国誉め」という自然の美しさや雄大さをうたに詠む古詩は、単にうたう

ことが目的ではなくて、歌うことによってその対象のもっている内的な生命力

というものを、自分と共通のものにする、自分の中へ取り入れる。

相手に向けた誉め言葉はその人にかけがえのない存在や生きる力を喚起

させるのだ。

その「祝」とは反対にあるのが、「呪」という。

これは呪詛するもの自身には直接的な利益をもたらさないが、他者が傷つき

穢される。批判や口コミというものがある。

ネットでの批判は自らの名を明かし「自分の言葉の責任を引き受ける」という

場合にのみ批判と呼べるのだと内田先生は書いている。匿名によるものが、

この「呪」にあたる。発信者が特定されない。誰から到来したものかわからない

発信者の情報の欠如が呪いを機能させる。

「呪」とは怖ろしいことだ。

 

誰しも聖人君子ではないので、意地悪なことを考えたり、あの人やだなぁと

思ったりすることがあるでしょう。そういう時に何か痛い目にあったり、転んだり

したという経験はありませんか?

そんなとき私は罰が当たったというよりは、なんでも自分にかえってくるものだな〜

と感じる。 良い行いをしていれば、きっと良いことがかえってくるのでしょう。

 

「大人のいない国」にはドキっとすることがたくさん書かれています。

 

 

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