レッスン楽器


上部フレーム

ピアノ教室コンセール・イグレック♪


ブログ

こないだの話

投稿日:2009-11-21

さて最近のことをすこし。
そう、この秋は2つのピアノリサイタルを聴きました。
小菅優のオール・ベートーヴェンとベヒシュタインのGPによるピアノコンサートでした。
それぞれとてもいい雰囲気で、楽しめました。でもふか〜い印象はありませんでした。
いい演奏が聴きたいな、と思っていた頃に何気なくBS-hiの番組で深夜放送していたものを録画したのですが、「アルカディ・ヴォロドス・ライブ・イン・ ウィーン」というのにびっくり仰天しました。そのあとにアンデルジェフスキのリサイタルも放送されて録画したのだが、聴けない。・・・(いやぁ、それだっ て実に素晴らしいのに、あまりのヴォロドスの凄さに絶句だったので。)
あのウィーン・フィルのニューイヤーコンサートが催されるウィーン楽友協会大ホールでのリサイタルで、スクリャービンの「白ミサ」といい、リストの「ダン テを読んで」といい、和音が密集していたり連打の部分でも、ものすごく音が柔らかで、なめらかで、カンタービレで、なんだかこれまで聴いてきたピアノの 音ってなんだったの?っていうくらい
違うのです。それでうぅ〜む、と唸ってしまった。何が違うのかしら、と。このごろ譜面の読みが深まりつつあって、譜を読み込んでいるだけで作曲家の世界そ のものに感動することが多いので、演奏のすごさにちょっとやそっとでは動かなくなってきているところがあったので、かる〜い興奮状態。・・・うぅ〜む、 う〜む。ほんとうに音が重なっても濁らない、澱まない、重くならない。・・・そう、このひとはすべての音を横に聴けているのだ。たとえばCの和音をふつう はド・ミ・ソの集合体として聴いてしまうところだが、T・X7・Tの和声でソ・ラ・ソ〜、ミ・ファ・ミ〜、ド・ド・ド〜と横に聴く力、まぁそんな単純な進 行ならいざ知らず、どんな音になっても何声部になってもこのひとは横に横に聴き分けている。うわぁぉ!すごい!こういうのはやっぱり天才的としか云いよう のない才能なんでしょうね。ぱっと一目風景を見ただけで立体的にものが描けちゃう、とかそういうひとたまにいるらしいから、特殊な才能というか、脳の構造 が違うんだなぁ、きっと。横へ横へ聴いてその声部を重ねて音を描いているから混色しないし、すべてが流れていて硬さをもたらさない。凄かった。また再放送 がいつかあるかもしれないので、ブックマークです。

さて秋も深まり、街路樹の紅葉もきれいになってきましたが、こないだ走り慣れた道で1本の樹に赤、青、黄の色が混じって「すっごくきれいだなぁ。」と思っ て運転中に窓から見上げていた樹があったのですね。「でも明日見るとこの味わい変わるかもね。」って自然のせつなに妙に感じ入っていたのですが、次の日走 るとその界隈だけ樹木の枝がなんとぶった切られていて、そう何だか市の緑化作業の一環なのかさっぱり分からないのですが、造園業のかたが来てバッサバッサ 切られていたのでした。思わずキュンとなりましたが次の瞬間、それを見ながら「音って切ないんだな。」と思いました。音って自然といっしょで、その日その 時一瞬の味わいを醸して消えてゆく。もういちどあの演奏を聴きたいと思っても同じ感動ってあり得ない。自然と同じで同じ人が同じ曲を奏したとしても、刻一 刻味わいは変わるもの。そうして私の記憶に残っている素晴らしいライブの音の感動の数々がふわぁ〜っと湧きあがってきたのです。そういう音をこころに持っ てるって、私はいつだってほんとうに幸せです。
そしてまた想念は移ろい、いくら作曲家が楽譜に想いを書きこめたとしても、やはりその微妙な味わいはその作曲家の一時の想いであり、その時代の一瞬であ り、せつないものなのだという気もちがもちあがってきたんです。でもだからこそ、なんていうのだろう、うまく言えないけれど、時代や空間を超えたところの 共有観、世界観みたいなものがなければ音楽を真に理解するってできないんだな、という気がしたのでした。

まぁ、音楽は果てしなく深い。

    アーカイブ

    下部フレーム